食農塾 日本の宝くじら食文化

[NPO法人くまもと食農応援団 食農塾] 2020.1.21

日本の宝 くじら食文化

熊本くじら食文化を守る会会長 

下鶴 容子 

1986年商業捕鯨モラトリアム(商業捕鯨一時中止)以降、日本特有の鯨食文化の衰退と、日常的に食べられていた鯨を食べる日本食は、畜肉に代わり衰退の一途を辿ってきました。

2019年7月から31年ぶりに商業捕鯨再開となりましたが、400年以上続いたくじら食文化は風前の灯となっています。

海に囲まれた日本特有の鯨食は、日本人が生きていく為に日本国民自身で守らなければ、食料戦争に負けるというまさに危機的状況です。現在の日本の食料自給率は更に下がり、37%は食料難民といっても過言ではありません。そこで、日本の宝であるくじら食文化について再興する必要があります。

歌川一勇斎国芳の『くじ捕り絵図』

この浮世絵は歌川一勇斎国芳の版画ですが、この絵の中に『宮本武蔵は肥後の産にして、豊前に来つつ奉仕す。また、諸国をめぐりて剣術を修行す。 ある時、肥前の海上にて、大いなるセミ鯨を刺し通す』と付記されております。

 セミ鯨は頭が大きく、ぷかぷかと海上をゆっくり泳ぐので当時捕獲しやすいくじらだったようです。本当に宮本武蔵がクジラに乗って刀で刺したかどうかは定かではないのですが、ありえる構図ではあるのです。

日本の鯨食の痕跡は古く、石川県の真脇遺跡からは約5,000年前(縄文時代前期~中期)のイルカの骨が大量に出土、九州でも約4,000年前(縄文時代中期~後期)の遺跡からクジラの椎骨を製造台にして作られた土器(底面に椎端の圧痕を残しているので「鯨底土器」と呼ばれている)が多く発見され、また長崎県壱岐の原の辻遺跡から出土した約2,000年前(弥生時代中期後半)の甕棺に捕鯨図が描かれており、712年成立の『古事記』にもクジラが登場しています。

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捕鯨の技術の進歩と普及は12世紀ごろになると、積極的に船をこぎだし、銛で突く「突き取り式捕鯨」が生まれます。江戸時代に入り、1606年に和歌山の太地で日本最初の捕鯨専業組織「鯨組」が設立され、組織的な捕鯨が始まります。さらに1675年には「網取り式捕鯨」が開発され、この捕鯨方法が土佐、長崎などへ伝播しました。日本では、仏教の伝来とともに、獣の肉を食べることが禁止されていたために、魚の食文化が発展してきました。

江戸時代には、大量のクジラ肉が流通し、庶民の食べ物として普及していきました。

鯨信仰は、ひとつには大漁祈願が考えられます。
『鯨一頭捕れば七浦うるおす』日本人にとってくじらは海からの恵みであり宝物だったのです。

鯨は富や食料をもたらすエビス様として沿岸地域に深く密着してきました。

また、捕鯨によって恩恵を得る反面、殺生を行うことに対する戒めの意味から、鯨を供養するという仏教信仰、さらには、すべてのものには霊魂が宿っているという霊魂観から、たたりを恐れ、豊漁を願う気持ちが法要や供養にこめられていたのでしょう。

上の写真の「鯨位牌」は、長門市の向岸寺には鯨位牌が残されていて全高77.5センチメートル、供養塔や墓、過去帳なども作り、法要をおこなってきました。また鯨に戒名の付された鯨の数は、243頭で体内の胎児にもお墓が作られて戒名も記されていた。

日本各地に鯨に係る祭りや芸能があるのは、日本人と鯨が共に歩んできたという歴史の証だといえます。

また、和歌山県太地町では古式捕鯨発祥の地として名高く、当地の豪族、和田一族が捕鯨技術の研究を進め、慶長11年(1606年)太地浦を基地として、大々的に突捕り法による捕鯨を始めました。鯨の町として太地は栄えていきますが、明治11年12月24日早朝、太地鯨方は、小雨まじりの東の風が強く荒れ模様の海へ、総勢184名・19隻で出漁しました。この年は近年にない不漁で、このままでは正月も迎えられないという乗組員たちの不安と切迫感が無理な出漁を促していました。
発見した鯨は、未だ嘗て見たこともない大きな子連れの背美鯨で、そのような巨鯨は当時の技術ではしとめるのは難しく、昔から「背美の子連れは夢にも見るな。」といわれるほど気性が荒々しく危険であるといわれていました。深追いしすぎて、生き残った人は13名で171名の働き盛りの男たちを亡くした悲しい歴史もあり、大背美流れとして言い伝えられ、毎年鯨の供養祭が行われています。

そのほか青海島や西海捕鯨の五島や呼子、豊後など供養塔を建て、各地でも鯨供養祭は行われています。

江戸時代の初期になると鯨組による組織的な捕鯨が始まり、その後網取り式捕鯨と呼ばれる効率的な漁法が開発されると鯨の供給量は大幅に増加します。
当時は生肉類の保存技術がなかったため、赤肉や皮類は塩蔵して全国の消費地へと出荷され、内臓類等は主に産地で消費されていました。

こうして鯨は江戸時代中期頃には庶民の食べ物となり、各地に鯨食文化が根付いていきます。
江戸では、年末12月13日の「煤払い(すすはらい)」の後に塩蔵した鯨の皮の入った鯨汁を食べることが庶民の慣習となっていたようです。
また、江戸時代後期に出版された書物「鯨肉調味方」には、70にも上る鯨の部位ごとに料理法が紹介されています。

太平洋戦争がはじまると捕鯨はストップして鯨の供給は途絶えてしまいますが、昭和20年戦争が終わり、食糧事情が最悪の状況の日本を救ったのは鯨でした。

貧困・栄養失調で結核患者が3軒の家に一人はいると言われ、栄養改善が急務なおり、早速GH Qマッカーサー元帥の指導の下、南極海へ鯨を捕りに行き1948年には鯨は栄養価の高い安い食べ物として学校給食にもたくさん使われ、1962年までは国民一人当たりの食肉供給量において鯨が牛、豚、鶏を上回っていたことからもその恩恵がうかがえます。 戦後の日本を救ったのは鯨肉にほかなりません。

クジラの利用は日本では殆ど棄てるところが無いほど利用されてきました。

歯鯨・ひげ鯨で多少の違いがありますが、この図はひげクジラの利用方法が書かれています。

 一番多い部位は赤身のクジラですが、さしみや缶詰・塩鯨・ソーセージ・焼肉・竜田揚げ・鯨カツなどにして食べます。

畝須は腹側の畑の畝のようなアコーデオンのひだのようになった脂肪を多く含んだ美味しい部位は鯨のベーコンが一番人気の食べ方です。 

 皮は煮物のだしにとてもよい味がでますので、熊本では人吉で大変好まれて食べられていました。

その他に、ひげは浄瑠璃を操るバネの役割に使われたり、靴ベラや茶たくなどの工芸品に、骨は肥料や飼料に肝臓の脂は肝油として戦後の子供たちに学校から支給されたり夏休み前には頒布も行われました。

鼻筋の軟骨のかぶらは、佐賀県唐津でかす漬けにして松浦漬けとして現在も缶詰で珍味として販売されています。舌はさえずりと言われ、なべ物や汁物や茹でものとして珍味として美味しく食べられました。

赤肉でも尾っぽの根元の赤肉は脂がのって美味しく尾の身として最高級の食材です。

また、内臓は 食道(姫ワタ)、胃袋(百畳)、小腸(百ヒロ)、腎臓(マメワタ)など鯨固有の名前が使われ庶民に親しまれてきました。尾羽という尾びれの部分を加工した『さらし鯨』は熊本でよく食べるもので、繊維質で出来ており、長く炊くとトロトロのゼリー状になり、コラーゲンたっぷりの健康食です。

鯨の健康成分は他に類を見ない素晴らしいもので、クジラの赤肉は美味しいのはもちろんですが、牛肉、豚肉、鶏肉に比べ、良質なタンパク質が多く含まれていて、ビタミンAを豊富に含み、低脂肪、低コレステロール、さらに他のビタミン類もバランス良く含まれています。心筋梗塞や虚血性心疾患などの成人病の予防にも役立ちます。

クジラの肉には、吸収性の良い「ミオグロビン鉄」が多く含まれています。

慢性的に鉄分の不足しがちな貧血症の方にとって、大変良い供給源となります。

 また、EPA というn-3kの不飽和脂肪酸を多く含み、血中のコレステロールを少なくする働きのある働きがあります。

皮の部分は脂肪を多く含む繊維質の物ですが、鯨の脂は不飽和脂肪酸で人間には吸収しにくく、コレステロールを排除する働きがあり、健康的な食品です。

さらに、他の食肉と比べてアレルギー症状をおこすことが少なく、食物アレルギーに悩む人にとっては重要なタンパク源となります。

さらに、鯨肉にはクジラ特有のアミノ酸物質の「バレニン」が豊富に含まれています。検証実験の結果、「バレニン」には抗疲労効果や疲労回復効果が確認されており、最近ではこの「バレニン」を使用したサプリメントや栄養剤がいくつも開発されています。

鯨の種類は、現在学説によりますが84種類です。大きく分けるとヒゲクジラ類(14種)と、ハクジラ類(70種)のふたつに分類されます。クジラのひげは歯の変形です。

ヒゲクジラ類は、上あごの両側にクシの歯のように250枚から400枚ものひげ板をもつ仲間で、鼻の穴が2つあり、あごの下に長いスジ(ウネ)がある種類もいます。

クジラは絶滅に瀕しているのでは? そんな質問がよくありますが、本当にそうなのでしょうか。
地球上で一番大きいシロナガスクジラは戦後1946年国際捕鯨取締条約締結から1959年の間、全体の頭数制限の枠内で、各国船団が一頭でも多く獲ることを競っていたオリンピック方式(シロナガスクジラから採れる鯨油の量を基準に、ナガスクジラ2頭、ザトウクジラ2.5頭、イワシクジラ6頭をそれぞれシロナガスクジラ1頭分として捕獲頭数を換算する方式)で捕獲効率の良い大型鯨の資源枯渇が進み、大型種はかなり少なくなり、現在もワシントン条約 (CITES=絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)の絶滅危惧種に登録されて捕獲禁止です。

基本的に、日本のクジラ食文化であることに、他国が論議することにいささかの疑問が残ります。

牛や馬は食べてよくて、なぜクジラはいけないのか?

IWC(国際捕鯨委員会)では、世界89ケ国の加盟国で41ケ国捕鯨賛成、48ケ国反対と色分けされています。

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 「商業捕鯨モラトリアム」や「サンクチュアリー」といった提案に代表される条約の附属書修正には、全投票数の4分の3の賛成票が必要となります。

附属書が修正された場合、それは全加盟国を拘束するものですが、定められた手続きにより、IWCに「異議申し立て」を行えば、拘束されることはありません。

ノルウェーやアイスランドが現在でも商業捕鯨を続けているのは、商業捕鯨モラトリアムに「異議申し立て」を行っているためです。

一方、全投票数の過半数の賛成票で採択される「決議」には拘束力はありません。

今では、ある国の政治支配力でクジラが利用されていると言っても過言ではありません。

 IWC脱退した今、日本の捕鯨にはIWCの管理下ではないものの、自国の責任の下、日本の食文化の維持の為に捕鯨の頭数や捕鯨の方法などはIWC管理内の基準を超えない範囲で真摯に計画実行していこうとしています。

 日本の未来の為の食料政策として、歳時記にある伝統的な食に加え、時流に合った新たな創造も必要です。美味しい鯨は、海に囲まれた日本の宝物です。